「しかし、雨あがってよかったなあ。」
赤信号を前に、サイクリング車が2台、横断歩道ギリギリに、スーっと止まる。
雨が降っていたのだ。雨上がり。
いい匂い。
モクレンの花の、沈丁花の花の、梅の花の、桜のつぼみの。
なま暖かい風にのって、すべての匂いをひとつに感じる瞬間…。
わたしは、深呼吸をした。
「カキ(牡蠣)って漢字でかけますか?」
神奈川県川崎市立の病院の夜警を勤める斉藤は、大マジメに看護婦に問う。
「う〜ん、わからないわ。斉藤さん、昔、国語の教師でもしていたの?」
きょうは、海にカンケイあるもので質問し、せめるのだ。
「じゃあ、シャコ(蝦蛄)は?」
きのうは、病名だ。
トイレにいくために、廊下を患者が歩いてきた。
「すいません、ちょっとおタズネしたいんですけど、ガン(癌)って漢字でどうかきますか?」
斉藤は、そのむかし、とあるビデオ制作会社の有能なディレクターであった。日本全国をロケで回り、徹夜でシゴトというのも、この世界では珍しいことではなく、例にもれず、斉藤もバリバリのキギョウセンシュとしてフル回転で働いていた。そんな斉藤がホッとする場所は、例にもれず、スナックだ。キャバレーだ。そして、あたらしいオンナノコを次々に呼んではいつも質問するのだ。
「愛ってなんですか?」
…愛ってなんだろう…。
桜吹雪の中、考えすぎて、プロデューサーとケンカして、辞職することになった。
今年みっつになる目の大きなかわいいオンナノコ、摩利子ちゃんは、少しふくらみかけたムネに手をあてて、おとうさんに聞くのであった。
「摩利子のこと、どれくらいスキ?」
「そんなにちっちゃいの?」
「やだやだ。」
「イヤイヤ!もっと!オクまで!」
「もっと!もっと!もっとオクまで!」
みかんの花咲く季節に生まれた摩利子は、15年後には、18歳になる。
家の門をそっと開く。初めて朝帰りした朝。雨上がり。バス停から、いつものような調子で歩けずに、両足をすりあわせるようにして、わたしは、ゆっくりと歩いてきた。カラダがすこしビッコになったようだ。
ほかに、なんの感覚があったのだろう。
なんの匂いがあったのだろう。
花の匂いなんてなくていい日曜日の朝帰り。
何億光年たってもかわらない季節は、なんだかあやしい。
モクレンの花が咲いて、
沈丁花の花が咲いて、
キンモクセイの花が咲いて、
ハイビスカスの花が咲いて、
紫陽花の花が咲いて、
すべての花がいっしょに咲いて
すべての匂いがひとつになって、
それでも、季節は春なのだろうか…。